เข้าสู่ระบบ芽衣は、詩乃を見つけた瞬間、花のような笑みをほどく前に、わざとらしく目を見開いた。
「詩乃さん……? どうして、こんなところに」
その声は、偶然の再会に心から驚いた女のものに聞こえた。薄い唇がかすかに震え、細い睫毛が不安げに伏せられる。けれど、怜司の袖を掴む指だけは離れない。淡い爪色をした指先が、まるでそこが自分の居場所だとでもいうように、彼の腕に添えられていた。
詩乃は、白い廊下の冷たさを足裏に感じながら、怜司を見た。
怜司は表情を変えなかった。
驚きも、気まずさもない。妻が病院にいる理由を案じる色さえ、その目には浮かばなかった。ただ、整えられた眉の奥に、予定にないものを見た時の冷えた煩わしさだけがあった。
「怜司さん……」
詩乃の声は、喉の奥でひび割れた。
奏音が倒れた。
そう言わなければならない。今は目の前の光景に立ち尽くしている場合ではない。あの子が、小さな身体で苦しんでいる。美琴が待っている。医師が処置をしている。早く行かなければ。
分かっているのに、喉が強張り、息がうまく通らなかった。
芽衣が、わずかに怜司へ寄り添う。衣擦れの音が、静かな廊下にひどく鮮明に聞こえた。
「ごめんなさい、怜司さん。私、体が弱くて……また迷惑をかけてしまって」
自分を責めるような、控えめな声だった。だがその声には、他人に守られることに慣れた甘さがあった。芽衣は伏せた顔を少しだけ上げ、詩乃の腹部をかすめるように視線を落とした。
「でも、女として生まれた以上、愛する人の子を宿せるのは幸せなことですよね。後継者を産めないままだと……どうしても、周りに心配されてしまいますし」
柔らかな言葉だった。
柔らかいからこそ、深く刺さった。
七年間、子を授からない妻。鷹宮家の血をつなげない女。陰で何度も囁かれてきた言葉が、白い蛍光灯の下で形を持つ。詩乃の耳の奥に、過去の茶会で聞いた婦人たちの笑い声が蘇った。鷹宮瑛子の、落胆を隠さないため息。使用人たちが目を逸らす気配。
芽衣は、何も知らないふりをして、すべてを知っている者の目をしていた。
怜司は咎めなかった。
その沈黙が、どんな言葉よりも冷たかった。
芽衣が小さく肩を震わせる。
「少し、寒くて……」
怜司は迷わず、自分の上着を脱いだ。濃紺の布が彼の肩から離れ、芽衣の細い身体へかけられる。芽衣は胸元で上着を握りしめ、恥じらうように微笑んだ。
その光景を見た瞬間、詩乃の視界がひどく遠くなった。
五年前。
妊娠が分かった日の夜も、こんなふうに寒かった。
詩乃は、震える手で検査薬を握りしめ、何度も何度も窓の外を見た。怜司に伝えなければと思った。怖かった。けれど、父親である彼には知る権利があると信じた。自分たちの間に生まれる命なら、きっと何かが変わるのではないかと、愚かしいほど真剣に思っていた。
その夜、詩乃は怜司の会社へ向かった。
ビルの下で、何時間も待った。冬の風が足首を刺し、薄いコートの下で身体が冷えていく。警備員に怪訝な顔をされても、秘書に取り次ぎを頼み、ただ一度だけ会わせてほしいと頭を下げた。
返ってきたのは、秘書の硬い声だった。
「若さまが、断りもなく会社に踏み込むなと仰っています」
詩乃は、その場で謝った。
自分が悪かったのだと思った。妻であっても、彼の仕事場へ突然行くべきではなかったのだと。妊娠の不安も、孤独も、足元から這い上がる恐ろしさも、全部、自分の我儘なのだと飲み込んだ。
あの日、怜司は詩乃に会わなかった。
だが今、彼は芽衣の肩へ上着をかけている。芽衣の体調を気遣い、腹に宿る子を守るように立っている。
詩乃の胸の奥で、何かが音もなく折れた。
涙は出なかった。
痛みが深すぎると、人は泣くことさえ遅れるのだと知った。
「……失礼します」
詩乃は、それだけを絞り出した。
奏音のもとへ行かなければならない。
怜司に問うことも、芽衣を責めることも、今はできない。娘の命より優先すべきものなどない。詩乃はペンダントを握りしめ、二人の横を通り過ぎようとした。
その瞬間だった。
芽衣が、小さく息を呑んだ。
「あ……っ」
ほとんど触れてもいなかった。詩乃はただ、廊下の端へ身体を避けただけだった。けれど芽衣は、まるで押されたかのように肩を傾け、自分から詩乃の腕へぶつかってきた。
細い身体がふらりと崩れる。
白いカーディガンの裾が空気を裂き、怜司の上着が床へ落ちかけた。
「芽衣」
怜司の声が低く響いた。
彼は即座に芽衣を抱き寄せた。反射のように速く、迷いのない動きだった。芽衣は怜司の胸元に縋り、青ざめた顔を作る。
「ごめんなさい……私、急に目眩が」
廊下の空気が一瞬で変わった。
看護師たちが足を止める。受付の方から、人の視線が集まる気配がした。詩乃は動けなかった。自分の肩に残った、芽衣の体温だけが気持ち悪いほど生々しい。
怜司が詩乃を見た。
「詩乃」
名を呼ばれたのに、夫に呼ばれた気がしなかった。
裁かれる前の被告人のように、詩乃はその場に立ち尽くした。
「謝れ」
短い言葉だった。
胸の中が、冷たい水で満たされていく。
「……私、何もしていません」
詩乃の声は震えていた。けれど、消えなかった。
怜司の目が細くなる。
芽衣は彼の腕の中で、弱々しく首を振った。
「いいんです、怜司さん。詩乃さんも、きっと驚いただけですから。私がこんなところにいたら、誤解されても仕方ありませんし……」
誤解。
その一語が、また詩乃の胸をえぐった。
何を誤解だと言うのか。産婦人科から共に出てきたことか。医師の言葉か。怜司の上着か。彼の手が、芽衣の腹を庇ったことか。
詩乃は、近くにいた看護師へ視線を向けた。
「今の、見ていましたよね……? 私からぶつかったわけではありません。あの方が、ご自分で……」
看護師たちは顔を見合わせた。
一人は困惑し、もう一人は怜司の顔を見て、すぐに目を伏せた。鷹宮の名を知っているのかもしれない。あるいは、芽衣の白い顔と震える肩を見て、どちらを弱い者と判断すべきか迷っているのかもしれない。
誰も、すぐには答えなかった。
沈黙が、詩乃の足元に重く積もる。
怜司の表情が、さらに冷たくなった。
「病院で何をしている」
「奏音が……」
言いかけた名は、喉で引っかかった。
言ってはいけない。
ここで、怜司に。芽衣の前で。看護師たちの前で。
奏音の存在を明かせば、もう取り返しがつかない。けれど、奏音が苦しんでいる今、黙っていることもまた、詩乃の心を引き裂いた。
詩乃の指先が、ペンダントを強く握りしめる。金具の角が皮膚に食い込み、鈍い痛みが走った。
芽衣の視線が、その手元をかすめた。
ほんの一瞬だった。だが、詩乃は見た。芽衣の目に、怯えでも弱さでもない、奇妙に鋭い光が宿ったことを。
怜司が一歩近づく。
革靴の音が、白い床に硬く落ちた。
「まだ騒ぐつもりか」
朔弥は、詩乃との接触を減らしていた。 裁判へ悪影響が出ないように。義弟との関係をまた切り取られないように。詩乃の母親としての立場を、余計な疑いで傷つけないように。そう理由を並べれば、誰もが納得する距離だった。 けれど詩乃は、その距離の中に別のものも見ていた。 彼自身の遠慮。罪悪感。踏み込めば壊してしまうものを知っている男の、慎重すぎる沈黙。 その日、詩乃は証拠資料を受け取るため、小さな劇場を訪れた。 表向きには閉館後だった。古い劇場の客席には誰もいない。非常灯に近い淡い明かりだけが通路を照らし、深い赤色の椅子が静かに並んでいる。舞台の幕は上がっていた。板張りの床には、わずかに埃と木の匂いが残っている。 詩乃は舞台の上に立った。 何年ぶりだろう、と思った。 幼い頃から、音楽は家の中にあった。父のヴァイオリン、母の歌声、譜面台、調律されたピアノ、客席の暗がりと舞台の光。神澤家が壊れる前、詩乃の未来は、こういう場所の先に続いているはずだった。 けれど父を失い、母が病床へ沈み、借金の代わりに鷹宮家へ嫁いだ日から、詩乃は自分の音楽を畳んだ。 音を出す余裕などなかった。 妻として息を殺すことと、母として奏音を守ることだけで、人生は埋まっていった。 客席の後ろから、朔弥の声がした。「君は、こういう場所に立っていたんだね」 詩乃は答えなかった。 振り向くと、朔弥は客席の一番後ろに座っていた。近づいてこない。舞台下に立つこともしない。彼の膝の横には、資料の入った封筒が置かれている。 その距離が、痛いほど明確だった。「ここは、知り合いの持ち物?」「昔の伝手。今はほとんど使われていない劇場だよ。人目が少ない場所の方がいいと思って」「私と会う場所まで、証拠にされるからですか」「そう」 朔弥は否定しなかった。「君がこれ以上、僕のせいで傷つくのは嫌だから」 詩乃は舞台の中央で、少しだけ視線を落とした。 助けられている。 けれど、近づけば危うい。 この関係を、どう呼べばいいのか分からなかった。「証言台で」 詩乃はゆっくり口を開いた。「愛していると言った理由を、聞いてもいいですか」 客席の奥で、朔弥の表情がわずかに変わった。「裁判で言う必要はなかったでしょう」「嘘をつけば、君を守れる気がしなかった」「本当のことを言えば、私が困る
裁判所の提案により、怜司と奏音だけで過ごす時間が設けられた。 父親としての面会を、詩乃の目の届かない場所で短時間だけ行う。ただし、医療スタッフが近くに待機し、異変があればすぐ詩乃へ連絡できること。奏音の体調を最優先し、予定より早く切り上げる判断も認められること。行き先は事前に共有し、移動距離も短くすること。 条件は細かかった。 それでも、詩乃は不安を隠せなかった。 奏音の髪を整え、薄手の上着のボタンを留め、薬と水の入った小さなポーチを確認する。何度も確認したはずなのに、まだ足りない気がした。胸の違和感が出た時の薬、連絡先、酸素、保険証の写し。どれもバッグに入っている。それでも、詩乃の手は何度も同じ場所へ伸びた。「ママ」 奏音が小さく呼んだ。「怜司さんと、ちょっとだけ行ってくるね」 その声に、詩乃は胸が締めつけられた。「うん。疲れたら、すぐ休んでね。苦しくなったら、我慢しないで言うのよ」「うん。大丈夫って言わない」 奏音は真剣に頷いた。 詩乃が何度も伝えてきた言葉だった。痛い時は痛いと言う。怖い時は怖いと言う。いい子でいようとして我慢しない。奏音がそれを覚えていることに、少しだけ救われる。 怜司は玄関の外で待っていた。 高価な車ではなく、福祉搬送にも対応できる落ち着いた車を用意していた。医療スタッフが同乗せずとも、すぐ後ろの車で待機している。運転手も、奏音の体調に合わせて休憩できる場所を事前に確認しているらしい。 以前の怜司なら、もっと目立つ場所を選んだだろう。貸し切りの施設、高価な食事、誰もが羨むような贈り物。けれどその日、彼が選んだのは、小さな植物園だった。 人混みの少ない時間帯。 歩く距離の短い温室。 休めるベンチが多い場所。 奏音は温室の入口で、葉に落ちる光を見上げた。「お花、いっぱい」「ああ」 怜司は歩幅を落とした。奏音の隣を歩くためには、いつもの速度では速すぎる。ほんの数歩進むたびに、奏音の顔色を見る。楽しそうか。疲れていないか。息は乱れていないか。詩乃が毎日していることを、怜司はぎこちなく真似ていた。 奏音は小さな黄色い花の前で立ち止まった。「ママ、黄色好きかな」「好きだと思う」「怜司さんは?」 怜司は少し考えた。「……あまり考えたことがない」「じゃあ、今日から好き?」 奏音の問いに、怜司は
最初に気づいたのは、美琴だった。 朝の薬を飲み終えた奏音が、窓際の椅子で絵本を広げている時だった。詩乃は体温を記録し、次の診察へ持っていく書類を整理していた。退院後の生活はまだ不安定だったが、奏音は少しずつ笑う時間を取り戻している。そんな穏やかな朝に、美琴のスマートフォンが小さく震えた。 画面を見た美琴の顔色が変わった。「詩乃」 呼び方だけで、悪い知らせだと分かった。 詩乃は奏音へ視線を向けた。奏音はまだ絵本を見ている。こちらの空気が変わったことには気づいていない。詩乃は静かに立ち上がり、美琴を廊下へ連れ出した。 美琴が差し出した画面には、いくつもの見出しが並んでいた。 心中未遂の母を持つ冷遇妻。 病気の娘をめぐる財閥兄弟の争奪戦。 義弟との新生活を望む妻。 暴力夫、それでも離婚拒否。 詩乃は、指先が冷えていくのを感じた。 非公開で扱われるはずの裁判資料が、ネット上へ漏れていた。 母の自死未遂。奏音の病状。詩乃と朔弥の関係を疑わせる記述。怜司が詩乃を打った事実。それらが、誰かの好奇心を満たすための見出しへ変えられている。 母の傷が、面白おかしく消費されている。 奏音の病気が、争奪戦という言葉で飾られている。 詩乃の恐怖も、怜司の暴力も、朔弥との複雑な関係も、すべてが誰かの指先で拡散されていく。 美琴は怒りで唇を震わせた。「最低。裁判資料まで漏らすなんて、もう人間のやることじゃない」 詩乃は画面を見つめたまま、すぐには答えられなかった。 怒りはあった。恐怖もあった。けれど何より、奏音に知られたらという思いで喉が詰まった。あの子は、自分の病気が人に迷惑をかけていると思い込んだことがある。母が責められる理由は自分だと、小さな胸を痛めたことがある。 これを見せるわけにはいかない。 その頃、怜司のもとにも報告が届いていた。 鷹宮グループの広報部と法務部が、すでに慌ただしく動き始めている。削除請求。発信元の調査。媒体への抗議。二次拡散への警告。怜司は会議室の画面に並ぶ見出しを見て、表情を失った。「削除を急げ。裁判所にも報告する。流出経路を洗え」 声は冷たかった。 だが、削除請求を出せば出すほど、別の批判も生まれた。 財閥による言論統制。 都合の悪い裁判記録を消そうとしている。 妻を黙らせ、次は世間を黙ら
詩乃は、母の病室を訪れた。 法廷を出た足で向かったわけではない。奏音の薬の時間を確認し、体調を見て、旭へ陳述書の準備について連絡を入れ、美琴に付き添いを頼んでからだった。それでも、病室の扉の前に立った時、胸の奥に溜まっていたものが一気に喉へ迫ってきた。 白い扉。 消毒液の匂い。 静かな廊下。 母の部屋は、いつ来ても時間が薄く止まっているようだった。 神澤澄香は、ベッドの上で眠っていた。細い腕はシーツの上に置かれ、点滴の管が静かに伸びている。頬は昔よりさらに小さく、喉元だけに、かつて声楽家だった面影が残っていた。詩乃は椅子を引き寄せ、母の手をそっと握った。 温かかった。 それだけで、涙が出そうになる。「お母様」 詩乃は低く呼んだ。 返事はない。 けれど、詩乃は話し始めた。「今日、法廷で、お母様の診療記録が出されました」 声が震えそうになり、詩乃は一度唇を結んだ。「お父様が亡くなった後のことも、病気のことも、長く眠ったままでいることも。私が奏音の母親として不安定かもしれないと疑わせるために、使われそうになりました」 母の指は動かない。 それでも詩乃は、その手を包む力を少しだけ強めた。「悔しかったです」 言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。「お母様が弱かったからじゃない。欠けていたからじゃない。お父様を愛して、神澤家を守ろうとして、最後まで必死で立って、それでも全部を失って壊れてしまっただけなのに。それを、私と奏音を引き離す理由にされることが、どうしても許せませんでした」 父の葬儀の日を、詩乃は思い出した。 黒い喪服。降り続く雨。母が棺の前で声を失った瞬間。誰かに支えられながらも、最後まで父の名前を呼ぼうとしていた母。その喉から音が出なくなった時、神澤家の音楽も一緒に止まったようだった。 母は、弱かったのではない。 限界まで耐えたのだ。「私は、お母様を恥だと思ったことはありません」 詩乃は母の手へ額を寄せた。「病気になったことも、眠ったままでいることも、奏音に会っても返事ができないことも、恥ではありません。傷ついた人を、恥のように扱う方が間違っています」 ベッドの横で、色鉛筆の箱が開く音がした。 奏音が小さな椅子に座り、膝の上に画用紙を広げていた。退院後の外出はまだ短時間しかできない。けれど今日は、どうしてもお
瑛子側から新たな資料が提出された時、詩乃は最初、その表紙に書かれた病院名を見ただけで息が止まった。 母の入院先だった。 法廷の空気が、急に遠くなる。旭が隣で資料を受け取り、すぐに目を走らせた。その表情が険しくなるのを見て、詩乃の指先は冷たくなった。 そこにあったのは、神澤澄香の診療記録だった。 父の死後、心中を図ったこと。長期にわたり意識障害と精神的な治療を受けていること。病床で意思表示が難しい状態が続いていること。そして、家族歴を踏まえれば、詩乃にも精神的な不安定さがある可能性を否定できない、という趣旨の意見書。 さらに、詩乃が奏音を出産した後に抑うつ状態にあったとする、出所不明の記録まで添えられていた。 詩乃は、資料の文字を見つめた。 母は何も悪くない。 父を失い、家を壊され、病の中で長く眠り続けている人だ。法廷で晒されるために生き延びてきたわけではない。声を出せない母の傷まで、詩乃を母親失格にするための材料として並べられている。 怒りより先に、身体が震えた。 あの白百合の花束を見た時と同じだった。美しい脅し。上品な手つきで、人の一番柔らかい場所へ刃を入れるやり方。瑛子は、奏音だけでなく、母の病室までもう一度法廷へ引きずり出したのだ。 瑛子側の弁護士は淡々と述べた。「原告の母親には長期にわたる精神的・身体的な治療歴があります。原告自身も出産後に抑うつ状態にあったとされる記録があり、未成年者の監護において情緒的安定性を慎重に確認すべきです」 その言葉の冷たさに、詩乃は唇を噛んだ。 出産後。 奏音を産んだ夜、詩乃は一人だった。父親へ知らせる道は閉ざされ、母は病床にいて、鷹宮家に頼ることもできなかった。泣きながら赤ん坊を抱いた。怖かった。眠れなかった。小さな呼吸が止まらないか、何度も胸に手を当てた。 それを、抑うつ状態という記録にして、今度は母親としての不適格を疑う材料にするのか。 詩乃の視界が滲みかけた時、向かい側で怜司の弁護士が資料へ目を落としていた。 弁護士は慎重に怜司へ顔を寄せる。「怜司様。こちらは離婚を拒むうえで、原告の精神的安定性に疑義を示す資料として利用できます。少なくとも親権や監護の争点と絡めれば——」 怜司は、書類を閉じた。「使用しない」 その声は低く、はっきりしていた。 法廷の空気が変わる。 瑛子
非公開の和解協議は、裁判所の小さな部屋で行われた。 法廷ほど広くはない。けれど、その狭さがかえって息苦しかった。白い壁、長机、低い空調音。机の上には、双方の書面と、裁判所側が用意した和解案の骨子が並べられている。詩乃は旭の隣に座り、向かいにいる怜司を見ないように、手元の書類へ視線を落としていた。 怜司は、新しい条件を提示した。 詩乃と同居しなくてもいい。 夫婦としての接触も求めない。 生活費も、奏音の治療費も、詩乃の母の入院費も怜司が負担する。 奏音の親権と監護は、詩乃を中心とする形で異議を唱えない。 ただし、法的な婚姻関係だけは残す。 詩乃は、しばらくその書面を見つめていた。 以前のような檻ではない。少なくとも表面上は、怜司は詩乃の生活に踏み込まないと言っている。奏音の親権を奪わないとも言っている。母の入院費まで負担すると書かれている。 けれど、その中心には変わらず一本の鎖が残っていた。 妻であり続けること。「なぜ、そこまでして籍だけを残したいんですか」 詩乃は顔を上げた。 怜司はすぐには答えなかった。 和解委員が静かに二人を見守っている。旭も口を挟まない。これは法的な条件である前に、詩乃が聞かなければならない問いだった。「私が妻ではなくなったら、何が変わるんですか」 怜司の指が、机の上でわずかに動いた。 長い沈黙のあと、彼は低く口を開いた。「お前が妻でなくなれば、俺はもう、お前にとって何者でもなくなる」 詩乃の胸が、小さく痛んだ。「奏音の父親です」「それだけでは足りない」 その答えは、あまりにも正直だった。 詩乃は息を呑む。今の怜司は、以前のように無関心ではない。奏音の薬を覚え、面会時間を守り、詩乃の入室が必要な時には病院側へ記録を残させた。自分の過ちを法廷で認め、鷹宮家に不利な証拠も出した。 だからこそ、苦しかった。 無関心なままの男なら、ただ憎めた。けれど目の前の怜司は、遅すぎる後悔を抱え、父親になろうとしながら、それでも詩乃を手放そうとしない。「私を愛しているのではなく、失うことが怖いだけです」 怜司は否定できなかった。 否定してほしかったわけではない。けれど、沈黙はいつも真実の近くにある。詩乃はその沈黙を聞きながら、七年間の自分を思い出した。名前を呼ばれるのを待ち、帰らない夫のために食事